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ワクチン接種1回目 [雑感]

新型コロナウィルスのワクチン接種1回目を受けました。居住地域の大規模接種会場で、モデルナ製。40歳代後半の女性です。軽い副反応も経験しました。

当日、シャトルバスを利用し、ほぼ予約時刻どおりに会場に到着しました。待機場所として屋外のテントにパイプいすが並べられており、そこに座って間もなく、1列(10名)ずつ会場内に案内されました。予約よりも早く着きすぎた人は待機場所の外で待っていました。

会場入り口には、手指消毒と検温を同時にできる装置が2台置かれていました。さっと通過すると、再び10脚ずつ並んだパイプ椅子に座り、そのまま係員が回ってきて予約時刻のチェックと、問診票、接種券、本人確認書類を手元に持っているかの確認をしてくれました。

順次、会場に入り、本人確認を経て医師の問診。これも引っかかるところは無かったのでさっと先に進み、早速、接種です。きびきびとした女性ドクターが、「緊張してると思いますが、なるべくリラックスして力を抜いて」と優しく声を掛けながら、一瞬で接種してくれました。これ自体はほとんど痛くありませんでした。(不妊治療で腰の筋肉に打った注射の方がよほど痛かったですね)

ここまで、到着からわずか30分ほどで終わりました。会場全体がシステマティックに動いていて、ストレス無く接種を受けることができました。

会場を出る前に、経過観察で15分待機。問診の結果によって30分待機になる可能性もあったようです。その間に、注意事項のパンフレットをもらって、2回目の接種の案内も受けました。わずかに接種した腕と脇の下のリンパあたりの違和感がありましたが、特に問題なしということで会場を後にしました。帰りのバスもちょうどいい時間に乗れました(到着から45分後のバスでした)。

深夜になると、左腕の痛みが強くなり、寝返りが打てないほどになってきました。翌朝には痛みで腕を上げるのが難しくなり、また、熱っぽさを感じるようになりました。よくある風邪では頭痛から始まって発熱したりしますが、それが、頭痛の代わりに接種箇所の痛みから始まるような感覚です。体温は36.9℃で普段より少しだけ高くなりました。概ね普通の生活を、少しペースダウンしながら、送れる程度でした。腕が上げられない程度の痛みは翌々日まで続きました。3日目(接種日を0日として)にはほぼすべての症状が解消しました。

その程度ではありましたが、これまで受けてきた予防接種のたぐいでは、記憶の限り最も強い副反応で、再度の経験は避けられるものなら避けたいなあという程度ではありました。全く素朴な疑問ですが、かかっても軽症と言われる若い世代の方が副反応が強く出るというのは不思議です。若者が「かかってもほとんど無症状で済むなら接種なんかしなくても…」となる気持ちも分かります。新たな疾病に対抗する研究成果に感謝しつつも、もしこのワクチンの普及を図るならば、何か、もう一押し、強く明るいメッセージが必要なのではという感想を持ちました。

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自由と教養 [雑感]

アメリカ大統領選挙の大混乱が伝えられている。
民主主義はいいものだ、自由はいいものだ、と、教わってきたし、そうだとずっと思ってきたけど、その行き着く先があの混乱と対立だろうかと思ってしまう。そんな面はある。
でも、問題はそこだろうか。
あり得ないような扇動をする指導者に、熱狂する支持者がいる。
場合によっては、他方も熱狂的に別の話を信じていたりする。
客観的な言葉を聞かないで、自分が信じたい言葉だけを聞こうとする。
真実の価値を軽んじているということではないかと思う。
学問が軽んじられる事とも通じてくる。学問は正義やコストの問題ではなく真実の追究だ(このことは別の方向に広がる問題なので詳細は省く)。
情報が多すぎて、どこに真実があるか見えなくなっているのではないか。
情報をどう判断するか、リテラシーが追いつかない事態が多くなっているように見受けられる。
リテラシーを涵養するのは雑多な情報などではなく、基本的な教養であるはずだと思う。
教育格差を放置し、十分な教養を身につける機会を得られなかった人たちが増えると、あの混乱につながってしまうのではと危惧する。
さらに利己的な政治のたちが悪いのは、その人たちからこそ支持を得やすいというところだ。
あの混乱と対立は、単に民主主義の帰結というよりは、教養軽視の行き着く先だったのではないかとふと思った。

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成都(2019年2月)#1 市内まで [中国]

遅ればせながら、先月の成都訪問の覚書を少し。
2月後半の某日、春節休みから平常に戻りつつある頃、中国四川省の成都に行ってきました。

成田から直通の全日空機が成都空港に到着したのは、ほぼ時刻どおりの午後11時前でした。

成都空港から市内への地下鉄は、午後11時頃が最終です。後述のように地下鉄がとても良いので、使えないのは残念なのですが、早々に諦めました。

入国審査は、外国人枠に長い長い列ができていました。それなりにじりじりと待ちましたが、中国人の列がはけたあとは、係員さんがどんどんそちらの列にも外国人を誘導していきました。

ホテルまでの移動は、タクシーにしました。深夜だし、前回、市内でタクシーが不足しているのを実感していたので、乗れるかどうかがやや心配だったのですが、結論から言えば、取り越し苦労でした。
タクシー乗り場は、空港を出てから、かなーり右方向に歩きました。正規のタクシー乗り場には、数人の係員がいて、タクシーと客をさばいています。途中で声をかけてくる白タクは、もちろん、全無視です。
正規の乗り場には長い列ができていましたが、タクシーも十分な数があって、どんどんはけていきました。
私が予約していたのは市内でもやや空港方面寄りのホテルで、タクシー代は38元だったか、ともかく40元もかかりませんでした。

ちなみに、ある旅行会社に空港送迎(出口で名前を持って待ってくれてる、あれ)を依頼すると300元で、まさに、安心確実を買うという感覚。

地下鉄なら3元からで、乗り場には、空港を出てすぐ前にある入り口から地下に降ります。

長くなりそうなので続きはまたの機会に…
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遮断されるということ [中国]

某国某地方で言語の現地調査をするようになって、かれこれ、十二支を一回り半しました。
現地調査をさせていただいているいくつかの小さな町や、その付近の大都市の変わりようは、まさに目をみはるばかりです。
スマホ・WeChatも普及し、大部分の人とは連絡もずいぶん手軽にできるようになりました。

しかし、あるかたとは、突然、連絡が取れなくなりました。
その方は年配でスマホも持っていないので、電話するしかないのですが、2日前まで話ができたその番号が、呼び出し音も鳴らず、(電源が入っていないとか番号が存在しないとかの場合はアナウンスが流れるはずですがそれもなく)異音がしてぷつっと回線が切れるのです。
その方の娘さんのWeChatにメッセージを入れると、「○○(その町にアクセスするには必ず経由する大都市)に着いたの?」と返信がありましたが、その後は、何を送っても何の反応もありません。

この体験は、初めてではありません。
今年2月末、久しぶりの再会を期してその町に向かったのですが、町に到着したその日に現地公安と外事部から、(民族問題で)難しい時期だから、安全のために、帰るようにと通告され、こちらは逆らう気持ちもなく従ったのですが、その後1か月ほどの間、今回と同じように、連絡がつかなくなりました。

通信網が発達したと言っても、その国で普通の人が持つ連絡方法は、電話とWeChatです。少なくとも今回連絡を取りたかったその人たちと私の間にはそれしかありません。そうなると、何かによって遮断されるということがこれほど簡単に起きるのかと、それが恐ろしく感じます。

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学会に行った。子供をみてもらいながら。 [育児]

もう先々週のことになる。学会に行ってきた。

最初は参加を迷っていた。
開催場所までは、片道2時間半ほどかかる。
参加時間帯を絞っても、やはり朝出て夜まで留守にすることになる。
発表者でも委員のたぐいでもなく、気楽な参加者の立場だから、どうしても行かなければならないというわけではない。
子供も小さいんだから、無理しないで週末くらい一緒にいなさいよ、という声も聞こえてきそう。
(そう、日程は土日の2日間。なぜか、この学会を含め、多くの研究会類は、週末を潰して開催される)
でも、やはり参加すれば、情報も資料も手に入る。共同研究をしている仲間に会って、ちょっとした打ち合わせもできる。

この週は、夫も、勤務先で開催される学術会議の時期に当たっていた。
平日も遅くまで忙しい。週末もいない。

こども園の土曜保育に預ける? いや、最長午後5時までだからお迎えに間に合わない。しかも土曜日しかない。
学会の保育室を利用? いや、片道2時間半、しかも途中都心で乗り換えなければならないという移動を、子供と一緒に2日連続でというのは、子供にも私にも負担が大きすぎる。

結局、また、実家を頼ることになった。
母は、また、はるばる四国から来てくれた。
というか、母が前もって「今度いそがしいんはいつな? 手伝いに行くで」と言ってくれていなかったら、学会参加は断念していたにちがいない。

しかし、子供は日に日にイヤイヤが激しくなってきている。前回来てくれたときよりも、はるかに難しい。夫も私もいなくて、母一人で丸一日、子供の世話、体力的に精神的に大丈夫だろうか。
心配していたら、夫が土曜日は家にいられることになった。助かった。夫は忙しいながらも家庭的な人で、子供の面倒も家事の分担もいとわずにしてくれるので、居てくれると本当に心強い。
日曜日は私が早めに帰ることにした。

学会一日目、土曜日。子供が母と朝の散歩に出た隙に、さっと出発した。
学会会場では、数々の興味深い研究成果を聞き、研究打ち合わせも無事にすることができたが、最後のセッションは途中であきらめて、帰途に。
家に帰り着いたのは、子供の夕食後・お風呂前の時間帯だった。
子供は比較的機嫌もよく、私の顔を見るなりにこにこと大興奮で迎えてくれた。
案の定、だっこ攻撃だし、寝るのはママとじゃなきゃイヤだし、だった。しかし夫と母に支えてもらって、家事の負担なく子供をみられた。余裕ができると、甘える様子も一段とかわいく感じられる。

学会二日目、日曜日。
子供は朝から様子がおかしかった。
朝ご飯いらないと言い、好きなものも全部イヤと言い、うえーん、ママ、だっこ、を繰り返す。
しっかりと抱っこしてやると、少し落ち着く。
私が抱っこしていないと、泣く。
時間ぎりぎりまで抱いていたが、最後は母が抱っこを代わってくれて、振り切るようにして出発した。
この日は第一日よりもさらに早く学会会場を辞去し、明るいうちに帰宅して、少しでも子供の孤独の埋め合わせをした、つもりだった。

しかし、翌月曜日。
子供はまたいつになくわがままをし、泣き、甘えた。朝はなんとか登園したが、夕方帰宅した後は離れられいほどだった。母がまだ居てくれたからよかったが、そうでなかったら夕食も何もどうなっていたことか分からない。
火曜日、母は帰った。子供の状態はすこしましになったが、やはり尾を引いた。
水曜日、私なりに思い切って、一時間早く迎えに行った。
実は木曜日は夜まで研究会があり、夫に頼んだ。
これからも、子供から離れる日と埋め合わせを繰り返していくと思う。

母親の役割と言い、一方で男女共同参画と言う、そのあたり思うこともあるけれども、そんなに突き詰める暇もないし、今は流して先に進む。
そんなことよりも、まわりの協力や理解があって、仕事ができていることに感謝。ありがとう。

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こんな週もある [育児]

家族そろって熱を出した。

木曜日に子供を迎えに行くと、保育士先生から「ちょっとお熱が」と伝えられた。帰る直前に微熱が出てきたらしい。
金曜日、朝から38度台。

実は私、次の木曜日に仕事上の重要な予定を抱えていた。
新しい所属先で、月に1回、領域の教員・院生が全員集まる公開研究会で、発表をすることになっていたのだ。

この日は、夫と半日ずつ交替することにした。夫が昼前まで一人で子供を見ている間に、私は大学で仕事。昼前に帰宅し、昼食をすませて、夫は研究所へ。
うん、よかった。半日とは言え、集中して、仕事ができた。夫が仕事に融通の付けられる日で良かった。感謝。

土曜日。子供の熱は平熱に戻った。良かった、おとなしく過ごせば月曜日には大丈夫かな。…ところが、夫が体調不良を訴え始めた。

日曜日。夫の体調不良が本格化。子供も夜にちょっと熱が上がってきた。あれ?

月曜日。朝、夫の体調不良、深刻。子供も熱が出て、こども園休み。私も何だかのどが痛くて調子がおかしい。体が動くうちにと思って、家事を済ませた。が、昼前にはこんな状態に。




検査、というのは、家族全員が同じように発症した上、あまりにも急に高熱が出たので、インフルエンザを疑ったのだ。
この後、子供の熱は39.7度まで上がり、心配になって小児科に相談し、検査をお願いした。
そうこうしているうちに、私は久しぶりの高熱で殆ど動けない状態になってきたが、夫の熱が下がって、夫のインフルエンザ検査はキャンセル、かわりに子供を病院に連れて行ってもらった。
インフルエンザは陰性。熱が下がれば登園OKとのこと。良かった。

しかし帰宅後、もう高熱で寝る態勢になっていた私(夕食は用意して食べさせるのを夫に頼んであった)を見て、子供が納得せず大泣き。夫がなだめても泣いて泣いて食事を拒否しているのが、寝室まで聞こえてくる。仕方なく何とか起き出して、食べさせて、自分も食事を抜くのをやめてお茶漬けだけ食べて、寝た。
それでも夫が治ってきて、子供を見てくれるという安心感。ありがたかった。

横になっていると、ツイッターを見て心配した母から電話がかかってきた。
「多分大丈夫」、「いやいや」、等々のやりとりの末、結局、翌日は、電車で1時間強の距離にいる伯母が来てくれることになり、また、結局の結局、母も新幹線含めて7時間の距離を、翌日の夕方に来てくれた。

結果的には、二人の助けがあって本当にありがたかった。
子供は、その後も、熱が下がってはまた午後に上がるというのを繰り返し、検査の結果、細菌性の風邪だと分かって(何の細菌かまでは特定されなかったが)、抗生剤を飲み始めた。
結局、1週間、1日もまともに登園できなかった(2回、早退した)。
私もいったん下がってからぶり返し、夜に微熱が出ることが続いたため、子供と一緒に治さなければということで、病院で薬を処方してもらった。

それでようやく、日常に戻る方向が見えて、母も田舎に帰り、1週間が終わった。

ちなみに木曜日の発表は、子供を早退させて病院に連れて行って、母に見てもらいながら園の保護者懇談会に行って、再び母に見てもらいながら大学に行って、という綱渡りの中、何とか無事に終わった。Chairの先生にも事情を理解いただき、最後は少し早めに切り上げていただけた。

支えられている感謝を忘れぬよう、メモ。

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再開 [研究活動]

某RPD枠に、採用していただいた。
研究受け入れ先から、フルタイムで研究に従事することを証明する書類を出していただいたことで、昼間、子供を預けられるようになった。

始まる前は、いろいろな不安があった。子供から離れていいんだろうか、子供を預けて大丈夫だろうか、こんな自分に何の仕事ができるのだろうか、などなど。

始まって少し経った今、率直に、嬉しい。

深夜と早朝に家事をして、朝、子供を登園させる。子供は今も大抵大泣きする。
保育士の先生が抱っこしてくれてるから大丈夫! 昼間は笑って活動してるから大丈夫! と、預けて、受け入れ先の院生室に行く。
院生室か図書館を利用して、夕方まで、研究を進める。
今のところ、かつて研究に従事していた頃よりもよほど集中できていると思う。
子供もがんばってくれているのだから、という背景もあるし、夕方までの限られた時間だという意識もあるし、いつ何があって休まなければならないか分からないから、早めに進めなければ、という危機感もある。

夕方、子供をお迎えに行く。
母親スイッチが入る。
子供をいとおしく感じ、温かく語りかけることができる。
お恥ずかしい話だが、一日中一緒にいた頃は、日に日に自己主張が激しくなる子供に、煮詰まってしまって、冷たく対応してしまうことも多かった。
今でもあるが、ずっと楽になった。限られた時間を大事に、母親であろう、と思える。

平日は家では研究しない(できない)。

実際の所は、育児なしで研究している人ほど研究できていないし、仕事無しで育児している人ほど育児できていないと思う。どちらも中途半端だ。
でも自己比較すると、いまとても充実して幸せだと感じる。
研究も、誰かより立派にしようと思うのでなく、昨日の自分より進むことを大切にしようと思う。
子供も、昨日より成長していることに感謝しようと思う。

感謝

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資源としての方言? [香川]

田舎に帰ると、方言を取り上げる企画をよく目にする。
地元に住んでいた20年ほど前よりも、見かける頻度が増えているように思う。

たとえば、新聞。
「さぬき弁百科」っていう記事があった。
(2014年3月5日付『四国新聞』より)

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ん……“すいとる”に「好きである」と「空いている」の「意味がある」、と?(同音異義では?)
でも細かいところはともかく、くすっとなるようなカラーイラスト付きで、この方言の話者でない人にも分かりやすく紹介されている。

こんな、地元レシピ紹介冊子でも、

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魚の方言名が紹介されている。ちなみにこれも同じ地元新聞社が作っている。

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私は高校卒業までしか地元にいなかったこともあり、魚の名称などこのへんの方言にはかなり疎い。
シタビラメとゲタって聞いたことある気もするけど同じ魚だったのかー、勉強になる。

新聞にせよ、レシピ冊子にせよ、標準語で書かれた文章の中でぽつりと方言が紹介される。
方言は標準語に対して少数派の言語ということになる。

少数派の言語をどのように扱うか。ざっくり3つの対応に分けて考えられると言われる。

“問題” → 多数派言語に同化させようとする
 (為政者が少数派言語の存在を非効率的でやっかいなものとみなし、消滅を是とする)
“権利” → 少数派言語を保持しようとする
 (話者が少数派言語をアイデンティティの一つとみなし、その保持を権利と考える)
“資源” → 少数派言語の活用ないし復興をめざす
 (少数派言語が活力を失って、希少価値を認められるようになる)

地方新聞を目にする人が全員地元方言の話者だったら、方言の紹介は記事にならないだろう。
実際に記事になっているというのは、その方言が相対的に力を失って、わざわざ記事にするだけの意義を持つようになっているということかなと思ったりもする。
相対的に力を失ったことの中身としては、オンラインを含む読者層の拡大だとか、伝統方言話者の減少だとか、考えられそうではある。未検証だけど。

しかしそれにしても、さっきのレシピ本、こんなのもあった。
地方名は“カキ”(または“ヒロシマガキ”)で標準名は“マガキ”……これはちょっとズルっぽいかなあ(笑)

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小ネタ失礼いたしました。(そう、この記事を書こうと思ったきっかけはこれ)

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年末年始コミュニケーション

年末年始の期間は、普段会わないメンバーとゆっくり話す機会でもある。

今回は、そんな中に、インターネットの情報でC国やK国が嫌いになってしまい、その国にまつわるものがみんな嫌になってしまった…という論調の人が複数いて、聞いていて暗い気持ちになった。

例えば外交や一部の商品などについてネガティブな印象が発生したとして、それを国籍で色分けして、その国に関わる人や物や文化を全否定するなんて、あまりに短絡的だ。インターネット上の言葉遊び的に盛り上がることはあっても、本気で同調する人が身近にいるわけがない……と、今まではどこか楽観していた。

しかし、現実は、想像したより短絡的だった。今回会った二桁の人のうち、少なくとも2〜3人については。

私の楽観も、ずいぶん一方的なものだったのだなと気付かされた。

また、そういった、凝り固まった人と向き合うには、心の遣いように特に工夫が必要、と気付く出来事もあった。

久しぶりに顔を合わせた新年の食事会、1つのテーブルでそんな短絡的な話題が盛り上がりかけたとき、1人が反論した。
その反論氏は、仕事の中で仕入れた知識を背景に、短絡氏を批判した。
二人はほぼ同世代だが、反論氏の方が年長。
反論氏が短絡氏の発言を咎め、短絡氏が納得せず、同じテーブルの人が短絡氏を擁護し、反論氏が納得せず…また反論氏が難解な喩え話を出し、短絡氏が誤解し…
議論が平行線のまま時間切れとなり、その場は散会した。

食事会後の短絡氏の反応は、
「正論かもしれないけど偉そうに言われてむかついた、もうあいつとは二度と口をききたくない」と……つまりは全くの単純な拒絶だった。

一時のこととは言え、せっかくの再会が……。

私はその議論がよく聞こえる席にはいたが、直接加わらなかったので、何も言えた立場ではない。

ただ、岡目八目的に学んだことは、“学者の議論”にもっと必要とされるコミュニケーション力みたいなものがありそうだ、ということだった。
つまり、正論や正しい知識の発信の仕方には、それを受け取ってもらうために、細心の気配りが必要であるらしい。それは一種のコミュニケーション力と言っていいと思う。

私も専門外の(前提知識を共有しない)人とのコミュニケーションを軽視しがちな環境に長くいたから、そのコミュニケーション力の全体像は分からないし、実践には遠く及ばない。
今後の努力目標として、今回気づいたことを覚えておこうと思う。
(ご覧になった方で、不備や追加すべき点にお気付きでしたら、ご指摘いただければ幸甚です)

・相手が理解できることから話す。難しい言葉で権威ぶらない。
・理解しているか確認するためにも、ゆっくり穏やかな口調で話す。
・誤った知識は訂正しても、相手の思いを否定しない。自分の知識を伝えても、自分の思いを押し付けない。
・自分の知識の不完全さ、考察の不十分さを自覚する。知らなかった知識を聞いたら受け入れる。
・相手を個人として尊重する。表面的な食い違いでなく、人としての信頼関係を意識する(口調のポイントにも通じる)。
聞き手は、いくつかの話を聞いたら、自分が信じたいところ(信じられる人の話)だけを信じるから、正しいことを正しく伝えるためにも、信頼関係は特に大切。


なかなか、これだけじゃまだまだ…というところだが、そろそろ肝心の伝える内容(専門知識)に戻るべきかもしれない(笑)
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今年を振り返ってみる

2013年は、私にとって大変化の年だった。
職を離れ、家族同居の上で研究を続けることを選んだ。

職場で退職の意思を打ち明けたのは、年明け早々のことだったと思う。
まずは、同じ部署で中心になって働いていた先輩Yさんに。
私が辞めた場合、直接に最も負担が増える方だ。
こちらの状況を良く理解してくださっていて、いろいろな思いを抑えて、了解してくださった。
それから、同じ部署の別の先輩に、そして上司筋に、事務に、と、ひとつずつ順番に、手続きを進めた。

「行き先」を探し始めたのは、その少し前、2012年末だった。
転職先ではない。
研究を、家庭と両立しつつ続けることを希望していたが、条件に合う所に採用されることはなかった。
つまり転職先探しが失敗した後の話ということになる。
諦めたのは、専任の地位だった。
それで探し始めた「行き先」の条件は、最低限、研究ができるつながりを保つこと。
できれば、科研費の執行ができること。
さらに願わくは、非常勤などわずかでも仕事があること。
しかし、移転先は遠く、新しい土地で、一人ではなかなか見つけられないし、ひとに相談する事もためらうし、で、なかなか進まずにいた。
具体的に話が進んだのは、年が明けて、ちょっとしたきっかけで、思い切って出身校の先輩に相談してからだった。
その先輩は、親身にアドバイスをくださり、さらに、すぐさま具体的に助けてくださった。
移転先に近い大学の先生に、話をつないでくださったのだ。
結果的に、このとき紹介してくださったI先生の所が、新しい所属先になった。
(ほかにもいくつか打診したが、動き始めが遅かったこともあり、うまくいかなかった。)
(教訓としては、日本の研究期間での研究活動に次年度から参加させてもらうには、10月ぐらいには動き始めた方がいいということ。)
このとき、大学院時代の恩師も陰でご協力くださっていたことを、あとで知った。
さらに、受け入れてくださったI先生が学内で奔走してくださり、科研費も使わせていただけることになった。
その大学の規定では、原則として、無給の研究員は科研費申請資格が与えられないことになっていたが、特例として認める手続きを取ってくださったのだ。
恩師、先輩、受け入れ先の先生、この方々のご温情には、感謝してもしきれない。
また、このとき、結果的にうまくいかなかったけれど、何人もの方に相談に乗っていただいた。
お忙しいところに、急かつ虫のいい相談をしてしまったにもかかわらず、温かく対応してくださった。
人のつながりのありがたさを実感した。すべての関係の方々に本当に感謝している。

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3月末に、退職、引っ越し(これまた周りに助けてもらって何とか完了した)。
夫と2人だけの家族が、やっと一緒に暮らせるようになった。

最初のうちは、新しい生活のための手続きや整理に追われた。
それでも、研究に関しては、新しいつながりもでき、今までのつながりも切れることなく、続けることができている。
年内に3度の研究発表の機会があり、年明けにも予定が入った。
昨年度は1回しか発表できなかったことを思えば、何とも恵まれている。
科研費も使わせてもらっており、研究のために科研費が必要で科研費執行のために研究の進行が必要で……という循環の中に今はいる。

退職というのはずいぶん迷いもしたけど、今のところ後悔はない。
いったん夫の扶養家族になる、という選択肢があったからできた決断で、この状況にも本当に感謝している。

ワークライフバランスの問題を考えたとき、結局は女性の側が仕事を辞めるのか、という議論もあるかもしれない。
しかしうちの場合は、必ずしも妻だから辞めたというわけではなく、職場の状況など総合的な判断だった。
でもまあ、妻らしく夫の元に引っ越したと取られても、それはそれでいいかな、と、思っている。

恩師からのはなむけの言葉:
 研究はどんな立場からでもできます。
 その評価も平等に行われます。

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